ユーラシアの近代と新しい世界史叙述

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「欧米史料による"アジア"史」研究会

2011年01月12日

欧米史料による”アジア”史」と題して、ユーラシア科研共催の研究会が開催されました。英語版のダイジェストはこちらをご覧ください。

日本語による報告文は以下のとおりです。yao DNBA.JPG

飯岡直子‘The Trading Environment in the Mid-Seventeenth-Century Northern Vietnam’は、トンキンを中心とした北ベトナムの絹生産を①黎氏から獏氏に至る政治的環境、②国際的商業環境から考察したものであり、②については1604年の朱印船貿易の開始から1685年の長崎における定高制施行という日本貿易の変遷と1626年のマカオ・トンキン貿易の開始から1684年の 展海令という中国貿易の変化とトンキンからのジャンク船の来航の途絶との関係を考察した。すなわち1684年の展海令により中国の生糸輸出が再開されたことによりトンキン生糸は競争力を失ってその役割を終えたとする。また1680年代の旱魃・洪水・飢饉という自然条件による環境の変化と人的資源の不足、火事・強盗・戦争といった人災が経済に深刻な影響を与えたことを指摘し、17世紀が混乱と機会の時代であったと結論した。

和田郁子‘Within or Beyond Bounds :Dutch slave trade and slavery in India in the 17th-18th centuries’は、インド洋世界における奴隷制の共通の定義を目的として、インドにおける奴隷について「動産としての財産であり、不自由な存在」との定義を試みるとともに、従来のカースト制ではなく奴隷制として捉えることにより、インドにおける奴隷は①「パライヤン」など最下層のカースト、②「奴隷」の2つのカテゴリに分けられるとする。またイスラム支配者における動産奴隷の増加とインドにおける奴隷貿易を考察し、アフリカ・中央アジアからインドへの輸入とインド奴隷の中央アジアの輸出とがあったとする。さらにポルトガル人を経てオランダの介入による奴隷流通への影響、オランダ植民地における奴隷の割合、オランダによるインド沿岸地域からの奴隷輸出、オランダ奴隷貿易と地域の支配者の対応、オランダ人と現地社会の奴隷観の違い、オランダ人の奴隷の定義を考察し、オランダの需要がインド洋の奴隷貿易を刺激したとする。

島田竜登‘The Economics of Gift Exchange at Ayutthaya: Reconsidering the Siam Trade by the Dutch East India Company in the Early Modern Period’は、18世紀におけるアジア貿易の転換期においては、中国の場合は従来の国際秩序の維持から貿易収入の確保への転換が行われるのに対して、タイの場合は当初から貿易収入に依存していたとする。またオランダ東インド会社にとって日本・インドとの三角貿易の維持のためシャム貿易が必要であったものの、アユタヤ王朝後期には王の家族・高官がオランダに高価な要求をしたために贈り物経費の負担の増加したのに対して、規模なジャンク船貿易はそのような負担がなかったこと、そのためナライ王(1656-1688)の死後、インド洋貿易に代わって中国貿易が重要となったこと、オランダ東インド会社は1767年までは日本に輸出する蘇木のため貿を維持したが、日本における蘇木需要の低下とオランダ・中国の直接貿易により日本・インドとの三角貿易が途絶し、新たに日本・バタビア・インドの新三角貿易が成立したとする。

Eric TAGLIACOZZO‘The Smuggling of Narcotics in Insular Southeast Asia: The Long Nineteenth Century’は、19 世紀において植民地であった東南アジアにおける密貿易について考察し、密輸業者による新たな経済の創出とそのメカニズムと商品を明らかにした。また1841年から1892年にいたるバンタン地方とスールー海域を舞台にしたアヘンの密輸を取り上げ、1880年代のオランダによる摘発史料から、アヘンはスマトラの農民が栽培したものであり、密輸されたアヘンの1/6はオランダ会社によりもたらされ、残りの5/6はインドネシアからもたらされたこと、60~80%は中国人クーリーが使用するとともに、密輸業者は中国人社会に属していたことを明らかにした。

DNBA isabel.JPG討論では、中国・インドにおけるアジアの史料とオランダ語を中心としたヨーロッパ史料の内容と相違についての質疑、インドの奴隷をグローバルヒストリーとして語る可能性、インドと長崎の出島におけるオランダ人の奴隷の使用の違い、日本とシャムにおけるオランダ東インド会社の贈物経費の違いなどが論じられた。

上野晶子‘From Dictionary to Magazine: Transitioning the Translation of Western Knowledge in Nineteenth-Century Japan’は、19世紀の江戸幕府による蘭書の翻訳事業の変遷を取り上げ、1811年に設立された蕃書和解御用における『厚生新編』の編纂事業から1856年に設立された蕃書調所における『玉石志林』の翻訳出版に至る変化を考察した。すなわちフランス人ショメールの『家政事典』のオランダ語版である『日用百科事典』の編集方針、蕃書和解御用による日本語への翻訳方針である「訳編初稿大意」を分析する一方、アヘン戦争や1854年の開国を経て設立された蕃書調所ではオランダ語の新聞・雑誌の翻訳が行われたことを指摘した。そして『厚生新編』が蘭学者の個人的興味に基づくヨーロッパの生活知識の習得であったのに対して、蕃書調所における翻訳は世界情勢の習得が目的であったとする。

福岡万里子‘Non-Treaty-Nations in Opened Japan : The Case of German Merchants’は、1858年のプロシアによる日本・中国・シャムへの使節派遣決定と1860年の派遣を中心に、1859年以後の日本のドイツ商人の活動と「条約国」「非条約国」に対する幕府の対応を考察した。そして中国においてはアヘン戦争後1843年のイギリスとの条約以降、シャムにおいては1858年のイギリスとの条約後、ドイツ船が増加したこと、日本ではイギリス公使オールコックの要請により中国人の流入を制限するなどイギリスによる非条約国人の排除が始まった時期にプロシア使節が到着したこと、当初はプロシアとの条約を認めなかったが幕府が最後の条約国にする条件で認めたものの、プロシア使節オイレンブルグは他のドイツ諸国との条約を求めたことを指摘した。また中国やシャムにおけるドイツ人商人への対応との比較から、中国とシャムとは条約国・非条約国に限らず居住を認めたのに対して、幕府は開国を条約国に限ろうとしたとする。

Kiri PARAMORE‘The Shoheizaka Academy, Information, the State and Transnationalism’は、反キリシタン思想としての儒教を中心に国家である江戸幕府がどのように学問を研究するとともに思想をまとめたのかを寛政の改革期の林派による思想統制から考察した。ここではBayleyの帝国と情報についての理論などから、前近代社会における情報の混乱や情報の主体が国家から国民に移行する過程を指摘し、「腐敗体制における正統知識への退行」か「国家による知識の統合への発展」かという視点から考察した。そして官僚組織によって知識が個人のものにならない 階層間のコミュニケーションができない点を指摘しつつ、真壁仁の研究などから古賀精里を取り上げ、、古賀の『極論時事封事』」が教育の必要性、情報による国際化、異国人を用いての北方警備を説いたことを指摘し、①正統知識のシステム、②封建制度と官僚主義、③知識の統合と統治の論点があるとした。

DNBA migi.JPG討論では、昌平坂学問所と蕃書和解御用の組織の比較から幕府による知識の統合の実態が議論されるとともに、保守主義者とみられていた古賀による実践的知識重視が近代的でありながらも封建制経済と官僚主義の中では限界があったこと、家による教育の統合と組織化の意味、自由貿易主義であるはずのイギリスが日本ではヨーロッパ間の競争は排除するために非条約国排除を提案したこと、イギリスが排除された鎖国が必ずしも反カトリックを基準としないように、開国が必ずしも通商を目的としたものでなかったことが指摘された。

Martha CHAIKLIN‘Trade Skeletons : Networks and Nodes of Commerce in the Early Modern Ivory Trade’は、19世紀におけるオランダ東インド会社による象牙貿易を取り上げ、象牙の産地はアフリカ象・アジア象の4種類それぞれに異なること、その流通が世界貿易全体に及ぶ世界史的商品であること、貿易の進展が需給関係という経済的条件のみならず植民地支配という政治的条件や自然環境の変化をも考察するテーマであることを指摘した。

Robert HELLYER‘Japan in the Pacific 1800-1870’は、19世紀における中国からアメリカへの緑茶の輸出を取り上げることにより、太平洋をアメリカ市場と中国貿易から見ることができるとした。そして1820年以後、対価としてのアヘンの流入と銀の流出が生じたことや1850年代のアメリカへの茶の輸出がアヘンと銀で払われていたことからアヘン戦争の画期としての再検討の必要性、1852年フィルモア大統領の日本への国書が中国貿易のために日本の開国を求めたものであったや1860年代のヨーロッパにおける生糸の疫病により日本からの生糸・茶の輸出が増加したことから、中国茶のアメリカへの輸出が日本とも深いのかかわりをもつことを指摘した。そして①外国資料のメリット、②理論的な開国観から1850-60年代の貿易関係の検討の重要性を説いた。

Adam CLULOW‘Visions of Power in Tokugawa Japan and Mughal India’は、17世紀のアジアにおいては、植民地化した新大陸とは事情が異なり、中国・インド・イラン・トルコの帝国が並び、17世紀初期からはオランダ・イギリスの東インド会社の史料により比較研究が可能であることを指摘した。しかしながら、日本の場合はヨーロッパ史料により平戸藩松浦氏をはじめとする国内史の研究が可能であるのに対して、インドの場合はオランダ史料では近代的な歴史は明らかにはできず、またヨーロッパのキリスト教君主以上に適切な統治であるという日本についての評価に対して、インドについてはサイードのいう19世紀とは大きく異なる姿があるとした。

討論では、19世紀の中国貿易について日本貿易との規模の比較や南米からの銀輸出の対価について質疑があった。また象牙貿易について人工象牙や「ヨーロッパ産」象牙の流通が指摘されたほか、オランダ史料とポルトガル史料における日本の評価の比較などが論じられた。

レオナルド・ブリュッセイ教授による東洋文庫英文叢書‘LARGE AND BROAD’の書評では、歴史学における史料研究は今では「古い」やり方と考えられていることへの批判がなされた後、総合討論と羽田正教授による日本・欧米・アジア史料の総合的利用の重要性のアピールを以て2日間にわたる討論は閉幕した。

文責:八百啓介

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