ユーラシアの近代と新しい世界史叙述

活動報告詳細

研究会「海賊セッション」

2010年10月27日

  研究会「海賊セッション」周縁化されるアウトロー:18-19世紀、ユーラシアの海賊とその鎮圧政策が9月25日(土)に開催された。各発表者とコメンテーターの内容を報告する。

薩摩真介「近世ブリテンの海外拡張における民間人による掠奪行為の利用と統制:十八世紀初頭の海賊鎮圧政策を中心に」RIMG0025.JPG

薩摩氏は、近世のイングランド(1707年以降はブリテン)が北米・カリブ海域へ拡張するにあたり海賊行為がどのような役割を果たし、またそれが18世紀初頭にいかに鎮圧されたかを報告の主題とした。ここで「海賊行為(piracy)」とは「海上で、また海から、主として船舶を用いて、公的権力の認可を受けずに行われる掠奪行為」であり、拿捕認可状の伴う「私掠行為(privateering)」とは区別されるが、実際にはしばしば両者の境界はあいまいなので総称するときは「掠奪行為」の語を用いる。

16世紀以降、海賊はブリテンの海外拡張と連動しており、活動地域や拠点は本国からより周辺の地域へと移動しつつ、掠奪の対象も当初は敵国船舶(とくにスペイン船)が中心であったが、次第に自国船をも含む無差別なものに変わっていった。16世紀はイングランド近海にとどまっていたが、ジェームズ1世期には北大西洋と地中海に広がった。17世紀半ば以降は、アメリカ、とくにカリブ海域がイングランド人を主体とする掠奪行為の新たな中心地になった(バッカニーア)。1670年にイングランドとスペインとの間で締結されたアメリカ条約以降は、ジャマイカを拠点とする掠奪行為への統制が強まったため、太平洋岸のスペイン領植民地に勢力圏が移動し、スペイン継承戦争の開始とともに海賊活動は一時沈静化していたものの、それが終わると再び活発化した。

 スペイン継承戦争後、商業利害集団と利害が対立するようになり、また海賊の存在が外交問題化したことから、海賊鎮圧への動きは本格化した。北米・カリブ海域の主要なブリテン領植民地の植民地エリート層(大プランターや大商人)や植民地総督からの要請という下からの働きかけを、本国の商務院(Boards of Trade)が仲介して国王や国務大臣を説得して、海賊鎮圧が植民地総督によって実行に移された。

その手段は、間接的なものでは特赦・海軍軍艦増派・植民地王領化・海賊関連法制定であり、直接的なものでは海軍軍艦による掃討と民間の鎮圧志願者の活用があった。1718年にバハマやカロライナで鎮圧が行われ、海賊たちは主要な基地を失ったため、西アフリカやマダガスカルに移動したが、海賊の活動は次第に衰退してブリテン臣民主体の大規模な海賊行為は終息した。なお、同時期に私掠の統制も進行していたものの、合法的掠奪行為としての私掠は18世紀をとおして残り19世紀半ばまで存続した。

鈴木英明「ペルシア湾におけるカワースィムの実態とその「海賊」行為:研究史の整理と今後の展望」

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イギリスがアラビア半島諸小政権と1820年に結んだ一般和平条約は、イギリスによるペルシア湾非公式帝国化の端緒であるといわれている。イギリスはそれまで海賊行為を働いてきたカワースィムを1819年に大討伐したうえで、この条約で海賊行為の禁止などを定めたのである。本発表で鈴木氏は、そもそもカワースィムとは誰なのか、彼らの行ったとされる「海賊行為」とはどのようなものであったのか、を問題とした。

カワースィムの単数形カースィムは、「(血縁によってつながると信じられた)カースィム家」という意味で、現在のアラブ首長国連邦にあるラァス・アル=ハイマやシャールカの首長家である。これに対し、複数形であるカワースィムは、カースィム家を中心に集まった雑多な出自の集合体を指すものと思われ、カースィム家がもつ拠点の地理的重要性を背景に海上交易を行っていたようである。18世紀には対岸にも進出し、カワースィムはペルシア両岸における政治的・経済的要所を押さえていた。

一般に1770年代末ごろからカワースィムの海賊行為が出現したとされる。しかし、同時代背景を考慮するならば、それが本当に「海賊行為」だったかは疑問がある。当時、貢納は港市政体を基本とするペルシア湾の政治権力にとって死活線であったが、その関係が交錯し、貢納ネットワークが崩れた結果、17世紀後半以降、とくに18世紀以降はペルシア湾・オマーン湾が政治的に不安定になっていた。はじめてカワースィムによって拿捕されたイギリス東インド会社船は、カワースィムと交戦中だったブー・サイード朝の旗を掲げていた。また、カワースィムにより拿捕された船舶の数はオマーン船が最多であったが、これはブー・サイード朝との実質的戦争状態によって説明できる。さらに、アラビア語文献においてカワースィムの行動が「海賊qarsan」と記述されるのはまれである。

くわえて、イギリス側が問題視する海上での暴力行為(「海賊行為」)の主体がカワースィムとは断言できないとの指摘もある。カワースィムは目印の旗があるわけでなく、また集団自体も開かれたものであり、また、当時は海上で暴力事件が頻発していた。イギリスがそれらをなんでもかんでもカワースィムのせいにしていた可能性がある。

このような検討を踏まえると、カワースィム大討伐とはイギリスが湾岸諸政権に対して行った強力な示威行動であり、1820年の条約は湾岸諸政権が卓越した軍事力に庇護を求めた結果であり、それがパクス・ブリタニカへの一歩を導いたといえる。鈴木氏は今後の研究課題について、ペルシア湾・オマーン湾の政治的秩序を海上の暴力行為との関係も含めて解明し、そのうえで、カワースィムの存在を18・19世紀に位置づけることを最終的な目標に挙げた。

豊岡康史コメント 豊岡氏は3報告をうけて論点提起をした。

<全体に対して>

①「海賊」の活動場所は鎮圧者側にとっての勢力範囲内かどうか?(だいたい内側のようであるが)

②「海賊」の鎮圧が国際的な問題とみなされ、国際協調で鎮圧にあたるようになるのはいつからか?

<太田報告に対して>

①ヨーロッパ本国での「海賊=害悪」論は元来思想的なものにすぎない。それが現地の情勢とくいちがったようなケースはなかったのか?

②現地のアウトローや秘密結社のように、現地人の間でのみ問題となるような場合は、それに本国側の人間がわざわざコミットしようとするのか?

<薩摩報告に対して>

①海賊の収入源はどのようなものだったのか?通行料のようなものを徴収していたのか?

②鎮圧を要求したひとたちは海賊の主体がブリテン人であると知って本国に請願していたのか?

③海賊がいなくなったとき、その社会的機能はだれが埋めたのか?

<鈴木報告に対して>

①カワースィム大討伐は6日間だけだったとのことだが、なぜそれほど短期で制圧RIMG0051.JPGできたのか?

②イギリス側は、カワースィム大討伐の後にどのようにペルシア湾を治めるかについて意識していたのか?

③「海賊」拠点の攻撃の計画はインド洋でそのほかにも存在したのか?

④だれが最初に「カワースィム=海賊」と言い始めたのか?

⑤カワースィムがいなくなったとき、その社会的機能はイギリスが埋めたのか?

以上 文責:内田力

パネル企画者である太田淳氏は、プロジェクト全体の方向性を、ご自身の報告「周縁化と取り組み:「近代化」制度確立期の国家と海賊その他のアウトロー」に沿って説明された。

太田氏報告

近代的制度が固まっていく段階において、国家が海賊問題をクローズアップさせてきたのではないかと太田氏は指摘した。Rafaelは、アウトローを扱った先行研究において「近代的制度が犯罪を作り、犯罪が近代国家設立の要件となる」という説が有力だと指摘している。Rissoの「海賊が西洋列強の介入を正当化し、列強が海賊を「創造」した」という議論も、そうした流れに乗っていると言えよう。

しかしユーラシア史という視点から海賊を考察すると、こうした議論は「欧米VSアジア」という対立構造を過度に強調し、欧米および近代をモノリシックに捉えすぎていると太田氏は指摘した。

ユーラシアの海賊を扱った先行研究はヨーロッパ中心である。一方アジアの海賊の研究は、ペルシャ湾、シンガポール海域、マレー世界など対象地域を小さく限定している。18、19世紀の国家よる海賊鎮圧はユーラシア各地で起きた現象であるが、その多くは「西洋」対「非西洋」、「近代」対「前近代」といった構造には収まらない。

近代ヨーロッパやアジア各地の事例から考えると、ヨーロッパが海賊に対し常に強力な鎮圧者であったというのは虚構である。海賊行動をヨーロッパ当局が黙認することは、アジアでは19世紀初頭まで続いた。バルバリア私掠は、フランスによるアルジェリア領有で1830年に終焉したが、1818年までは国際社会が共同してそれを鎮圧する試みはなかった。オマーンでは1804年まで現地の国王が海賊を鎮圧し、イギリスはむしろ海賊と宥和的で、妥協と貢納金で切り抜けた。また18世紀末にはイギリス商人がマラッカ海峡周辺でアジア系海賊と協働した。

一方東アジアでは早くから国家による海賊鎮圧が行われ一定の成果を挙げている。日本では豊臣政権が16世紀末、中国では清朝政権が17世紀に海賊鎮圧を行った。16世紀以降日本で海賊が発生しないことは特殊な出来事である。清朝は密輸で最も重要だったアヘン商人による小港での零細取引が国家管理の弱体化につながったため、1850年半ば以降イギリス海軍を利用しての海賊抑制政策をとった。海賊の存在は沿岸管理における国家の役割あるいは国家関係(イギリスとの関係)において変化をもたらしたことが理解される。

ヨーロッパにおいては、ナショナルな意識の芽生えが、海賊を害悪とする言説の発展につながっているのではないか。また一方で植民地当局にとってフリーブーター経済は必要悪であった。

日本と中国においては、16世紀末と17世紀末において、国家が暴力の行使と政策決定に関し唯一の権威となることが達成されたことが、海賊鎮圧に貢献した。西洋列強は、西洋人の優越意識、文明化の使命、自由貿易論の強まりとともに、18世紀末からアジアの海賊を罪悪化していった。

RIMG0017.JPG先行研究の多くは、海賊を含むアウトローが近代の到来とともに消滅したと論じる。しかし近代が人間社会のあらゆる側面を同時に根本的に変容させたと考えるのは、我々がPolanyiの「大転換」に縛られているからではないか。近代国家が成立した時、アウトローは実際に周縁化もされるが、取り込みもされているのではないか。例えばシンガポールで、イギリス当局はアヘンの専売集団(秘密結社)を媒介として収入を得ていた。これはアウトローの近代化とも言えるし、近代国家における非近代性の存続とも言えよう。

ヨーロッパをあまり一枚岩にとらえてはいけない。ヨーロッパで海賊鎮圧が主流な議論となったのはナショナルな意識や自由貿易論、リベラリズムが発達した後である。自由貿易はイギリスの専売特許ではなくオランダにも支持者がいた。アジアの海賊行為に対して、アジアにいたヨーロッパ人当局者による実践は多様であった。西洋列強に対して、アジア側からの対応もさまざまであった。これらの折衝と妥協がユーラシアでの近代の展開を複雑なものにしているのであって、近代がすべての変化のセットとして現れてきたと考えなくもよいのではないか。

豊岡康史氏からの問題提起

 太田報告に対して、「海賊=害悪」説をとった本国と現地の情勢が食い違うケースはなかったか、また秘密結社のように現地で完結する問題に帝国がどのように関与したかと質問があった。太田氏は、現地当局が海軍力、資金、船舶が不足していると述べる場合、本国も無理強いできなかったと説明した。しかし、オランダやイギリスが実際海軍を派遣した場合、現地の意向に関わらず討伐行動をとったケースもあるという。秘密結社の問題では、白人は関与しているともいないとも言える。イギリスやオランダ当局が秘密結社を必要とした理由としては、まず労働力の確保が困難だったことが挙げられる。中国人の頭目の協力でヨーロッパ人はプランテーションや鉱山を運営でき、アヘンを売りつけることが出来た。しかし植民地当局との微妙なバランスが続いたわけでもない。東南アジアでは19世紀後半から非国家勢力の伸張を国家が恐れ始めた。ボルネオの金鉱山における秘密結社、シンガポールのアヘン専売秘密結社も最終的にはオランダ、イギリス当局よって潰されていった。

  鈴木報告に対しては、カワースィム大討伐は6日間だけだったとのことだが、なぜそれほど短期で制圧できたのかの質問があった。これについて鈴木氏は、1809年などにイギリスは攻略しようとしたが中途半端に終わり、最終局面が1819年であったと述べた。まただれが最初に「カワースィム=海賊」と言い始めたかという質問には、現地に駐在するイギリス側商館員が言い出したものであり、アラビア語文献などの現地語文献では、彼らを『海賊』と呼称する事例が見当たらないことが指摘された。また、「カワースィム=海賊」という言説については、カワースィムという集団の構成における特徴(カースィム家を中心とした雑多な集団の集合)も考慮すべきだという指摘もされた。カワースィムがいなくなった時、その社会的機能はイギリスが埋めたのかとの質問には、①カワースィムはいなくなることはなく、現在まで存続していること、②以前から行っていた交易活動は継続して行われたこと、③ただし、海賊行為はある程度沈静化したものの、依然として存続したこと、④カワースィムの拠点のひとつであるシャーリカ(シャルジャ)にはイギリスの駐在館が置かれるようになったこと、これらが指摘された。

薩摩報告に対しては、イギリス系海賊の収入源はどのようなものだったのか、通行料のようなものを徴収していたのかとの質問が寄せられたが、収入源は、基本的には奪ったものを基地に持ち帰りそれを売却する、通行料については、近世以降通行料を取ったという形跡はないとの回答があった。また鎮圧を要求したひとたちは海賊の主体がイギリス人であると知って本国に請願していたのかについては、その認識があったと説明した。また大西洋以外の地域でもイギリス系海賊は活動していたのかという質問に対しては、インド洋も活動範囲であったとの回答があった。また、十八世紀初頭にイギリス系の海賊が鎮圧されていなくなった後に、海賊が果たしていた社会的経済的役割は誰が埋めたのかという質問がなされた。これに対しては、カリブ海域で私掠者や海賊などの民間の掠奪者が果たしていた代替的軍事力としての役割は、最終的には正規の海軍力に取って代わられたとの回答があった。一方、海賊が果たしていた経済的役割をその後誰が埋めたかについては、まだ確実なことは言えないが、海賊と密輸行為は相関関係があり、イギリス系海賊が最終的に鎮圧された十八世紀初頭以後は、潜在的に海賊になりえた水夫たちは、おそらく密貿易人に吸収されていった可能性がある。そのため、海賊が果たしていた経済的役割を埋めたのは密貿易人だったのではないかと推測される、との回答があった。

村上衛氏コメント:RIMG0052.JPG

日本に関しての海賊の盛衰については、中国東南沿海部と同様に活発になったが、江戸幕府の成立によって海賊が完全に消滅するということが中国とは大きく異なる。日本においては、太田氏が指摘するように国民国家に近いものが出来ていたというのはあるかもしれないが、中国にはそれがなかった。

全体については、18世紀末から19世紀にかけて、イギリスを中心とする列強のアジア、ユーラシア地域への進出がテーマであるが、ほぼ同時期に世界的に貿易が活発化しており、いろいろな海賊活動が取り上げられ、さまざまな現地政権の対応ケースがあったとコメントした。

また、海賊というテーマが各地域における統治のありかたをよく示しており、その違い、類似性を検討して行くことは面白い。その中でアウトロー、沿海部の海賊、密輸に関連した人々が後どうなったかを検証する必要がある。18、19世紀が中心になるが、地域によっては17世紀も入れてもよいのではないかと提案された。

薩摩報告に対しては、ヨーロッパによる海賊行為ということを考える時、イギリスの海賊の事例はどこまで代表性があるのか、という問いがなされた。これに対し、17世紀後半までは、バッカニーアの例に見られるように、フランス人やオランダ人も海賊行為を含む掠奪行為を、時にはイギリス人と共同で行っていたので、イギリス人だけが海賊行為をしていたというわけでは勿論ないが、近世のヨーロッパの国々の中で、イギリスが海賊行為の中心の一つであったのは確かである、との回答があった。次に、海賊の出自はイギリス系に限られていたのかという質問については、すでに述べたようにフランス人やオランダ人の海賊もいたが、とくに本日の報告で中心的にとりあげた十八世紀初頭の海賊については、その多くはイギリス系であった。フランス系のバッカニーアも十七世紀末までは活動していたが、それ以降どうなったのかは不明である、との回答があった。また海賊消滅の理由に関して、海賊鎮圧のために沿岸住民の統制が行われたのかという質問に対しては、北米・カリブ海のイギリス領植民地の王領植民地化がそれに近いと言え、とくに1717年のバハマの海賊鎮圧の場合は、この王領化と海賊鎮圧が直接的に連動していた、との回答がなされた。

太田氏概括:なぜ海賊というテーマと、18、19世紀という時代を取り上げるのか。

18、19世紀のユーラシアの特性として、イギリスを中心とする列強がアジアに進出し、そこにさまざまな衝突が生じた。異文化の接触がもたらす諸問題、列強が押し付けようとした問題、それらの問題を浮き上がらせるひとつが海賊なのではないか。西洋の言説において、この時代にアジアの海賊がクローズアップされる。それは西洋がアジアに進出して行く上での思想的なバックボーンと、西洋人が実際にアジアの当局者と折衝する際の18、19世紀的な特徴を示してくれるのではないか。また、海賊という存在が国家の境界に新しい意識をもたらした。国家の外に本拠地をもち、かつ国家に強く所属していない海上の勢力に対して誰が法的権力を行使できるのか、海賊との交渉を通じて誰が海賊を征伐する権利や義務を持つのか、国家の境界のあり方が海賊という存在で浮上してくると思われる。各地の多様な海賊の状況を見ることで18、19世紀のユーラシアの特徴が分かってくるのではないかと今後の展望を述べた。

全体討論から

西川杉子氏コメント:

イギリス、オランダの先進性、プレゼンスがとても大きいと見なされているようだ。しかし、18世紀いっぱいはイギリス、イギリス東インド会社の商業的活動は全世界に広がってはいたが、イギリス国家、イギリス国民の意識はまだ弱小国といった感じで自信がなかったと思う。特に彼らの地中海方面への政策によく出ている。イギリスは18世紀に入るまで地中海方面に乗り出す力もなかったといってもよい。

例えば、17世紀末にイギリスは国家を挙げ、国費をかなりつぎ込んでタンジールの開発に乗り出した。しかし、1684年にあっという間に叩きのめされて大敗北を喫した。それ以降イギリスは地中海方面へは乗り出せないと自覚して行く。1816年までイギリスがバルバリア私掠者に対する取締りに乗り出さなかったのは当然のことである

マルタ騎士団についてもう少し踏み込んだ話があっても良かった。マルタ騎士団は国家のように聞こえるかも知れないが、コスモポリタンな騎士修道会が権力を握っていた。彼らがいわばバルバリア海賊などへの対処を一手に引き受けていた。彼らは16世紀末にオスマンの攻撃に耐え抜いたとしてヨーロッパ中から賞賛を集め、資金がマルタ騎士団に流れ込んだ。またナポレオンに追い出され、19世紀末にマルタ騎士団はマルタ島から敗退するが、その後もイギリスはマルタ騎士団の復活を助けようとした。マルタ騎士団が対イスラムの前面に立ってもらいたいという世論が19世紀前半にも出ていた。イメージとして、18世紀はムスリムが地中海に大きな影響力を持っており、それに対してイギリスは手が出せず、せいぜいマルタ騎士団にやってもらいたいという現状だった。

岡美穂子氏の質問

鈴木氏に対して補償に関する質問が寄せられた。襲われたら中世においては泣き寝入りのようなものだったのだろうが、近代に近づくほど補償というものが必要となってきたと思われる。それは国家間で処理されたのか、それとも保険会社の発達により補償が可能になったのか、そしてさらに、スペイン船やイギリス船というが、スペイン船だったとしても、カーゴオーナーは実際にスペイン人ではなかった場合があり、そのような場合の補償はどのように行われたのか。

鈴木氏は、インド洋では保険はあるが具体的なことは分からないが、船や船荷に保険をかけるのは19世紀になると認められたと説明した。国家間の補償について18世紀は分からないが、西海域では1860年代以降になると、船籍のようなものを勝手に決めるようになる。例えばイギリスが、勝手に航行している船を拿捕、拘束あるいは破壊してしまった後、それがフランス船籍の船だと分かれば補償しなければならない。これはフランスだけに限らず、オスマン朝や他の王朝との条約制定過程で定められた場合、それに則っとらなければならない。インド洋では19世紀半ば以降のことだと述べた。

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羽田正氏の総括:

 

イギリス、オランダからの押し付けだとするトーンも一部感じられたが、それ以外は共感を覚えた。誰か特定の人物がイニシアチブを持ってやっていったのではなく、その時代の人たちが何らかの責任を持たなければと思えば、全体の構成は良かったと思う。また「国家」という日本語の曖昧さを再認識した。英語ならばState のほかにGovernment、Kingdom、Empireなどいろいろな言い方があるが、日本語だと全部「国家」で済んでしまう面がある。

ヨーロッパについて面白いのはイギリスの例で、ここまでイギリスだけで完結し、海賊までが国籍をもっているとしか思えないような薩摩氏の話だった。同時期にオランダ東インド会社の多様な人たちが一緒に船でアジアに繰り出しているわけで、海賊までブリテン島の人間であるというのは考えにくい。イギリスの特殊性が見えてきたが、それをヨーロッパといってよいのかは疑問である。なぜそこまでブリテン島の人間だけが集まっているのかは、「国家」という言葉の関連で面白い点だった。

以上 文責:白山映子

 

 

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