アジアの港町比較研究

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チャオプラヤ川を遡ってアユタヤへ

2008年03月12日

バンコクアンバサダーホテル発→チャオプラヤー河の川船、バスを乗り継いでアユタヤーへ→バン・パイン宮殿→アユタヤー歴史研究センター→シェイフ・アフマド廟→プラ・シーサンペット寺院・アユタヤー王宮跡周辺探索→ウォラブリ・ホテル着

7:00

 アンバサダーホテルを出て、バスでチャオプラヤー河畔の船着場リバーシティに向かう。 チャオプラヤー河は下流域で大きく蛇行しており、この付近ではほぼ西北西から東南東へ流れている。船着場とそのすぐ側に位置するホテル群は完全に西洋風のものだが、少し離れると華人街となり漢字の看板が並んでいる。

 

 

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8:30

船出。このあたりから王宮までの間を観光客向けの川舟がひっきりなしに往来している。

船出してしばらくは東岸に華人街が広がり、関帝廟の姿も見える。十数分ほどで、西岸Wat Arun(暁の寺)の側を通過し、次いで東岸に王宮が姿をあらわす。この地に王宮が定められたのはチャクリ朝の開祖ラーマ一世が即位した1782年のことだが、現在のあまりに燦然たる諸建築自体は現代のものである。バンコクでもアユタヤーでも王宮は常に水際に位置している。対岸トンブリーは1767年にビルマによってそれまでの都アユタヤーが破壊されてから、15年間トンブリー朝の首都となった故地である。

船出後一時間も経つと、バンコク市内とはいえ両岸の風景はずっと鄙びてくる。川に足を突っ込んだ木造の家屋の奥には森が広がることもあるが、支流との合流場所などに来ると近代的な町並みに一変する。どこまでいっても地形は完全な沖積平野であり、一つの山も見当たらず、高いものといえば高層ビルディングと寺院、王宮などの塔だけである。 

チャオプラヤー河の蛇行は著しく、アユタヤーが都であった頃河口との距離を短縮するために運河を開削したというのも頷ける。

 

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11:30

  船上で昼食後船着場着。そのままバスで北へ一時間。

高速バスならバンコクからアユタヤーへは二時間弱だが、船の速度が遅いのと、チャオプラヤー河の蛇行のため、三時間船で進んでもまだ道程の半分ほどにしか達していない。     かつての帆船にとって、アユタヤーは河口からかなり遡った場所にある国際交易港だったわけである。

 

12:30

  バン・パイン宮殿着。17世紀初期プラサートトーン王の時代にまで起源を遡る宮殿で、アユタヤーの壊滅後、約80年間放置されていたのをラーマ四世が修復し、次のラーマ五世もこの離宮を愛したとされる。チャオプラヤー河の川中島に造営されたこの離宮は縦横に水路、池が走っている。中国風、洋風それぞれの御殿、展望台などがあるが、現代になって修復・建築されたものが多く、ましてカートで走り回ることができるとあってはテーマパークのような印象を受けてしまう。ここからアユタヤーへは北に約30キロほどである。

 

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14:00

  アユタヤー歴史研究センター着。45分間見学。アユタヤーの旧市壁内にはチャオ・サム・プラヤー国立博物館とこのアユタヤー歴史研究センターの二つの博物館があり、前者が仏像・仏教美術中心なのに対して、こちらは王都、港市としてのアユタヤーに関する博物館。16、17世紀のアユタヤー古地図、アユタヤー復元模型、オランダ、ポルトガル、中国、日本、琉球、ペルシア、マレーなどとの関係解説、アユタヤーを訪れた当時の諸帆船の模型、輸出入品、当時の平民の暮らしぶり、など展示も充実している。

 

15:25

  シェイフ・アフマドはペルシア高原の町ゴム出身で、アユタヤーにわたってペルシア人コミュニティの頭領となり、のちソンタム王に仕えた。山田長政より少し前の人物である。その子孫たちもアユタヤーの政治・貿易で活躍を続けた。アユタヤーの王は、外からやった「他国民」には政治に介入させない、というような発想を持たなかった。全ての土地は何れかの国家の領域であり、全ての人も何れかの国家の国民である、という考え方は3、4世紀前の世界では通用しないのである。

長島教授は以前よりこの人物に関心を抱かれ、今回の調査でもシェイフ・アフマド廟訪問を大きな目的とされていた。シェイフ・アフマド廟は、先のアユタヤー歴史研究センターと旧王宮の間のどこかにあるということで、バスを走らせて数十分探したのだが見つからず、断念することとした。

これより先、我々のガイド、ソム氏は近隣のアユタヤー・ラーチャバット(Rajabhat)大学にて聞き込みを行っていたのだが、一向にバスに戻ってこないため鈴木氏が呼びに行くと、丁度ソム氏はシェイフ・アフマド廟がまさにこの大学構内に存在することを突き止めたところであった。長島教授を先頭にバスから順次降りて廟へ向かう。

そして辿り着いた廟は現在修復中である。廟はイラン風である。修復材料が入っていると思しきダンボールの側面には「イラン製」とのペルシア語のラベルが見える。皆で記念写真をとって廟を後にする。

 

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15:40

  プラ・シーサンペット寺院の門前で集合後、70分間分散して各自プラ・シーサンペット寺院・旧王宮のある区域を見学。

プラ・シーサンペット寺院は恐らくアユタヤーで最も有名な遺跡であり、敷地内には日本人含め多くの観光客が集まっている。ところが寺院の敷地を北へ抜けて旧王宮へ足を踏み入れると、もうここには観光客は殆ど入ってこない。旧王宮では建築物は姿をとどめておらず、ただその基礎部分だけが残っている。

旧王宮で驚かされるのはその面積の広大さであり、もちろん旧江戸城などの面積に比すことは出来ないがそれでもバンテンよりははるかに大きい。プラ・シーサンペット寺院なども王宮と一体をなすものとして数えればその面積はさらに大きい。プラ・シーサンペット寺院はずっと昔には王宮であった場所であり、王宮とこれらの寺院を一体として捉えることはあながち間違いではないと思う。また、バンテンの王宮は城塞的要素が大きいのに対してアユタヤー王宮は庭園風である。実際王宮の敷地こそ広大だが、建築物の数はそんなに多いわけではなく敷地の大半は池、庭で占められていたようである。ただ、翌日訪れたロッブリーの王宮跡はアユタヤーよりずっと小ぶりであり、庭園の面積も小さい。

王宮が島の北部にあってしかもその面積の大半が庭園であったということは、往時商人がチャオプラヤー河を遡ってアユタヤーに達したとき真っ先に目の当たりにし都の威容を感じたのは島の内外に並びたつ寺院群だったのだろう。復元図を見てもこと建築に関しては寺院の方が王宮より立派に思える。なぜこれほど多くの豪華な寺院を建設する必要があったのか考えさせられる。

王宮の中に限らないが、旧市壁の内部にはあちこちに元は運河あるいは池であったと思われる窪みがある。隈なく歩き回ることで往時のアユタヤーの姿が少しずつ目に浮かんでくる。ただこの付近に残っているのは殆ど寺院と王宮跡だけという限界はあるが。

 

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16:50

バスでウォラブリ・ホテルへ向かう。チェックイン後再び島内へ戻り夕食。日が暮れると遺跡は美しくライトアップされる。ホテルは島を東に出てすぐの場所で、嘗て中国人が多く暮らした地域に位置する。

 

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